【インターンレポート】2014年6月18日 SAYONARA国立競技場FOR THE FUTURE

SAYONARA国立競技場FOR THE FUTURE
首都大学東京 吉原修事務所学生インターン 廣田あかり

今回、私は吉原修事務所の学生インターンとして、吉原都議の名代として、2014531日に行われた「SAYONARA国立競技場FOR THE FUTURE」のファイナルセレモニーに参加させていただきました。
国立競技場は1958年に東京で開催された3回アジア競技大会と1964年に開催された第18回オリンピック東京大会招致のため、旧明治神宮外苑競技場跡地に「力強さ」「簡潔」「優美」というデザインコンセプトのもとに建設されました。現在でも各国立競技場には、オリンピックマークと“Tokyo 1964” を合わせたエンブレムが残っており、東京オリンピックの会場であったことを偲ばせています。
今日ではJリーグをはじめとするサッカー、陸上競技、 ラグビーなど各種の国際大会や選手権大会が数多く開催され、これらの競技者にとって、国立競技場は憧れであり、「聖地」とも呼ばれています。
~ 日本で初めての本格的陸上競技場の誕生 ~

国立競技場の前身は「明治神宮外苑競技場」(以下、神宮競技場)です。

大正13年10月に、日本で初めて、そして東洋一の本格的陸上競技場として、青山練兵場跡地に建設されました。神宮競技場は、大正8年12月に工事が着工されましたが、その後、物価の高騰や関東大震災の被災者の収容施設となり工事が中断されました。
大正13年3月に工事が再開され、同年10月に完成しました。
神宮競技場は、陸上競技のみならず、サッカー、ラグビー等が行われ、総合競技場として利用されていました。陸上競技では、織田幹雄氏が三段跳で、南部忠平氏が走幅跳で世界記録を樹立するなど、多くの名選手を生み出しました。一方で、第2次世界大戦中に学徒出陣の壮行会が行われ、敗戦後は連合軍に接収され、「ナイルキニック・スタジアム」と名をかえて使用されるなど、暗い時代もありました。
~ 日本の競技場から国際的な競技場へ ~

敗戦から数年後、日本は、「平和な日本の姿をオリンピックで世界へ示したい」として、オリンピック招致の声明を出しました。そのための国際的なアピールとして、昭和33年、「第3回アジア競技大会」を東京で開催しました。そのメイン会場として生まれ変わったのが、現在の国立競技場です。
国際大会の舞台となる競技場の建設は、神宮競技場の取り壊しから始まりました。建設計画の中心人物は、建設省関東地方建設局(当時)の角田栄氏と設計・デザインの片山光生氏。着工は昭和32年1月で、大会を2か月後に控えた昭和33年3月、ついに完成となりました。
アジア大会が成功裡に終了し、東京オリンピックの招致も実現すると、国立競技場は、日本を代表する国際的競技施設という存在を国内外にアピールしていくことになります。

~ アジアで初のオリンピックの開催 ~

東京オリンピックを2年後に控えた昭和37年3月、競技場の拡張工事が開始されました。主な内容は、収容人員増のためのバックスタンドの増設、正面スタンドから見て右側にあった聖火台のバックスタンド中央への移設、グラウンド地下道の新設、電光掲示盤や夜間照明設備の改修などでした。
昭和39年10月10日、94か国・5,558名が参加した「第18回オリンピック競技大会・東京大会」の開会式が、改装された競技場で行われました。国立競技場で行われた競技種目は、陸上競技、サッカーの決勝と3位決定戦、馬術の大賞典障害飛越です。10月24日の閉会式まで、アジアで初めての聖火は燃え続けました。


~ 日本のスポーツの聖地として ~

東京オリンピックが終了してからも、国立競技場は、昭和42年の「ユニバーシアード東京大会」をはじめ、天皇杯全日本サッカー選手権大会、全国高校サッカー選手権大会、ラグビー大学選手権大会、ラグビー日本選手権大会、東京国際(女子)マラソン、サッカートヨタカップなど、国内外の様々な大会に利用されてきました。
平成3年8月に開催された「第3回世界陸上競技選手権大会」や、平成5年5月の「Jリーグ開幕式」、平成15年9月の「ラグビートップリーグ開幕戦」などは、記憶に新しい方も多いと思います。
また、過去には、三大テノール日本公演(平成8年)、日韓共催サッカーワールドカップ(平成14年)でのパブリックビューイングなどの行事が行われたこともあります。

~新国立競技場へ~
2008、施設の老朽化などを理由に球技場への転換を含めた調査研究協力者会議が設立されました。
20122月、国立競技場の全面建て替え工事の基本構想が発表され、2012713日には、国立競技場将来構想有識者会議が、総工費1300億円の国際コンペの実施を決定しました。応募総数は46件。その中から書類選考により11件に絞り、同11に最終審査を行い、イギリスザハ・ハディドの作品をグランプリ(最優秀)として採用しました。2014夏季に現施設の撤去・取り壊し工事を開始し、2015秋季頃に建て替え着工、2019竣工を目指しています。
20139月7(日本時間翌9月8)に実施された第125次IOC総会にて2020年夏季オリンピックの会場が東京に決定されました。新国立競技場は2020年東京オリンピックメイン会場として使用されることも決まりました。
SAYONARA国立競技場FOR THE FUTURE
2014531() SAYONARA国立競技場 実行委員会の主催で、国立競技場のファイナルイベントが開かれました。会場内に入れなかった多くの人が、国立競技場の前で最後の記念撮影をする姿が目立ちました。会場内では、朝からマラソンのオリンピックメダリストによる陸上のファイナルランが行われた他、サッカーやラグビーのレジェンドマッチが開かれました。
また、1964年の東京オリンピック開会式で、日本中を大きな感動と歓声の声に包んだブルーインパルスが最後の国立競技場の上空で再び、華麗なフライトも披露されました。フライト終了後は、自衛官のサイン会も開催され、何百メートルにも及ぶ長蛇の列を形成する人気ぶりでした。
午後19時45分、ファイナルセレモニーが始まると、辻井伸行さんのピアノ演奏で会場全体が暖かい空気に包まれ、聖火リレーと点灯が行われました。聖火リレーの最終ランナーはレスリングの吉田沙保里選手。会場にいた誰もが、最後の国立競技場に聖火が灯る瞬間をかたずをのんで見守っていました。吉田選手が聖火を灯すと会場は拍手であふれ、なんとも言えない感動でした。
その後、海上自衛隊の三宅さんによる国家独唱、下村大臣等の挨拶、谷村新司さん・森山良子さんによるライブが行われ会場が盛り上がった後、FOR THE FUTURE演出と題して、56年という時間を、映像とテクノロジーでよみがえらせる演出が行われ、その様子はTVで生中継も行われました。
聖火が消灯すると何百発の花火でセレモニーが締めくくられました。
会場にいた人たちは夜遅くまでピッチが解放されていたので、もう踏むことのできない国立競技場の芝生で寝っ転がったり、記念撮影を行ったり、最後の瞬間を誰もが惜しみながら楽しんでいました。
しかしこういった次の国立競技場に向けての楽しい大規模なイベントが開催された裏側で、終日、国立競技場の外では、オリンピック開催に反対をする「反五輪の会」と呼ばれる会の方たちがデモを行っており、会場に来ていた誰もが目にしました。
彼らは一見すると華やかなオリンピックの裏側で行われる強制立ち退きや排除に「待った」の声をあげていました。
国や東京都には、こういった意見がある事実も受け入れ、誰もが喜んで2020年東京オリンピックを迎えられるような政策や整備をしていって欲しいなと感じました。
~最後に~

前回の東京マラソンに続き、今回も、大変に貴重な経験をさせて頂くことができました。機会を与えてくださった吉原都議と吉原事務所の高梨さんに心より感謝します。有り難うございました。

参考サイト

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